「台本を読む会」のこと①
2016年末「プロの完璧な芸術を観に行くこと」にとうとう飽きはじめてしまったと気づく。
それにしたがい「観劇をおすすめする」ことへの情熱も湧かなくなってしまった。
ブログの趣旨…。汗
替わりに、以下のようなことを考え始めた2017年始。
①未熟さのおもしろさ
プロが持つ技術(演出、作劇、演技etc)の素晴らしさは、ある程度観劇や製作の経験がある人間にとっては、予想の延長線上にある。
しかしプロでない人、つまり熟練しておらず、完璧さを目指していない人の予想だにしない間違いやファインプレーは、予想を裏切り続ける。
おとなよりもこどものほうが自由でクリエイティブなのと一緒。
②参加する楽しみのほうが、コントロールしやすい
映画でもライブでも演劇でも、「見てよかった~」と思えるかは作品に対する期待、そのギャップ、クオリティ、好みなどによる。受動的な体験の楽しみをコントロールするのは難しい。期待や相性をコントロールするには、丁寧なプロモーションとマッチングが必要。
ただしもし、見るだけでなくチームに参加していたら。「参加してよかった~」と思えるかは、けっこう「参加してくれてありがとう~」という主催のホスピタリティと、特別な体験をしたという満足感だけでまかなわれるところがある。
あと鑑賞コストに比べ、参加コストは調整しやすい。参加ハードルを下げると、期待もあげすぎないですむ。
③観劇は特別なことだが、ドラマと演技は日常的なこと
私たちは日常的に、私たちなりに絶望するし感動しながら生活している。
恋愛も家族との葛藤も自己嫌悪も、ふつうに自分のとなりに存在する。
だから、ロマンティックな照明や音楽がなくても、美男美女に語ってもらわなくても、ドラマに心動かすことはできる。
また、人は毎日「どういう表現であれば人に伝わるか」を探りながら無意識に演技している。
せりふを読むこと、を特別に感じるかもしれないが、案外、せりふを自分でつくって読むことは日常的にしているから、誰にでも身近なことなのだ。
というわけで、2017年は「台本を読む会」をやってみました。
ある時は自宅で、
ある時は激安カラオケボックスで、
ある時は他人の家で(笑)。
ある時は夜中に、ある時は真昼間に。
参加者は公募しようかなとも思ったのですが、小型実験を繰り返したかったので、多少つまんないことになっても笑って許してくれるであろう大らかそうなお友達に限定。
また「戯曲リーディングワークショップ」ではあるんだけど「戯曲」とか「リーディング」とか「ワークショップ」みたいなディープ感出して「読み解く」とか「声の演技」に興味のある人を集めるのは本意ではないので、なるべく演劇と関係ない人に声をかけ、「ただ台本をだらだら読んでみるだけ」と説明して、興味をもってくれた人を集めました。
6回開催して、毎回2~6名が参加。
読んだのは以下のラインナップ。
◆0次会
「上田誠(ヨーロッパ企画)『小さな出版社』」
「本谷有希子『遭難、』」
◆1次会
「前川知大(イキウメ)『青の記憶』〈『まとめ*図書館的人生』より〉」
「柴幸男(ままごと)『あたらしい憲法のはなし』」
「NODA・MAP『The BEE』」
◆2次会
「前川知大(イキウメ)『ゴッド・セーブ・ザ・クイーン』『東の海の笑わない帝王』『輪廻TM』『いずれ誰もがコソ泥だ、後は野となれ山となれ』『賽の河原で踊りまくる亡霊』』〈『まとめ*図書館的人生』より〉」
◆3次会
「ケラリーノ・サンドロヴィッチ(ナイロン100℃)『フローズン・ビーチ』
「藤原佳奈(mizhen)『夜明けに、月の手触りを』」
◆4次会
「成井豊(キャラメルボックス)『パスファインダー』」
「つかこうへい『売春捜査官』」
「上田誠(ヨーロッパ企画)『来てけつかるべき新世界』」
◆5次会
「清水邦夫『楽屋~流れ去るものはやがてなつかしき~』」
「上田誠(ヨーロッパ企画)『来てけつかるべき新世界』」
いろんな形態で、いろんなメンバーと、いろんな戯曲を読んでみて…
気づいたことなどは次回。