1st Ticket

Not for theatergoers

「ナショナルギャラリー 英国の至宝」 /アートの見方を提案する

だいぶ前に見たので今さら&うろ覚えですが…たいへん引っかかるポイントの多い映画で、その後もふと思い出すので書きとめておく。超々長文
『ナショナルギャラリー 英国の至宝』


『みんなのアムステルダム美術館へ』が面白かったので見比べようと。

全然違った…。
アムステルダム~』が改修中の10年を追ったドタバタドラマ風だったのに対し、『ナショナル~』は堅い堅い。しかも3時間。ひたすらキュレーターたちが語る語る。8割くらい、館内ツアーなどのギャラリートーク。他ドローイングのワークショップやMTG風景など。
とにかく情報量が多くアカデミックすぎるほど。メモを取りながら見たかった美術関係者も多いだろう…。むしろ映画館より、美術館やホールなど明るいところで流しっぱなしにする向きの内容だったのでは。


●パブリックであるために、するかしないか
チャリティマラソンのゴール地点をナショナルギャラリーにしたい、という問い合わせが来ていて、それを受けるかどうかの会議。
「美術館のPRになる」という意見と「特定のプロモーションに協力する前例をつくりたくない」「テレビに映ったとして、それは見せたい美術館の姿なのか!」という意見の対立。
(きっと日本のプロジェクションマッピング企画の裏でもこんな会議が開かれている…)
「誰にでも開いていること」がパブリックなのであって、「開いていない」のも「特定の団体にのみ開いている」のもパブリックでない、という議論。
東浩紀さん&平田オリザさんのゲンロンでも「文化芸術は、政治と市場原理、どちらに支配されることを選ぶのか」の話があったのを思い出す。
→いずれかの意見がパブリックなのではなく、この議論を公開すること・市民が参加できることがパブリックなのかも。


●X線
レンブラントのある肖像画を修復のためレントゲンで見ると、その下にもう一枚の完全な絵が写っていた。
つまりボツ絵?の上に下塗りをして、その上に描いてある。
それを踏まえて見ると、この貴族の装束は考証的に不自然だが、下の絵を隠すのに暗い色を塗りたかったからなのだ!などの分析。
二つの絵が完全に重なっているレントゲン写真がとても劇的でときめいた。他にも過去が透けて見える絵ってあるに違いない…!
→『名画のレントゲン展』どなたか開催早く!!


●修復は解釈である
何百年も前の絵は、そのままでも変色するし、修復を重ねても変わっていく。
それを分析した今の修復家が「最初はこういう色/線だったに違いない」と解釈して、過去のワニスを落として修復する。
しかし「また修復できるようにする」らしい。それは未来の解釈の自由を残すため。
→最新の正解が絶対の正解と思ってない。超長期的謙虚さ!


●時間の凍結
絵画の中で起こっていることは「時間の凍結」。
ある空想の情景、あるいは数年がかりの物語も画家によって一枚=一瞬に凝縮されている。
→音楽や舞台映画と違って、絵の鑑賞は時間がいらない・あるいはいつもいつまでも見ていてもいい。
一瞬から永遠までの距離をゼロにする芸術!かっこいい…。


●アートの見方を提案する
とにかく語る語るキュレーターの皆さん、その知識・表現力のなんと豊富なこと!
もちろん「これは○○が書いた××の絵です」だけではない。
例えばある聖母像について。「この絵は古い教会の祭壇に飾られていました。その教会でこの絵を見ている、と想像してみて下さい。私たちは文字が読めませんし聖書は持っていません。神父さまのお話を聞きながら、聖母さまに祈っています。当時は電気がありません。蝋燭の明かりや月光がふとこの絵を照らしたら、まるで聖母さまが光り輝いたように見えると思いませんか?」というような。
あるいは目の不自由な方向けのワークショップで、凹凸で線を出した「さわれる絵」を指でたどらせながら、色や情景を解説したり。
つまり情報・歴史・解釈・印象など堅くも柔らかくもあらゆる切り口で、しかもどれもわかりやすく新鮮な言葉で、その作品を伝えることができる。
→文学映画演劇などシナリオがあるものほど、こういう「見方」を提案できるプロフェッショナルの記事はあまり見かけない気がする。
 最近の私の「情報ではなく解釈のヒントと印象を、しかも具体的に語るべきだ!」ブームはここから来ている。

 

先日『ヴァチカン美術館 天国への入口』も公開になったようで…。
何この美術館ドキュメンタリー旋風。こちらは映像美追求型のようだ。なんかもうここまで見たら見るしかない気がしてる。