1st Ticket

Not for theatergoers

観客のプライド

(超長文。最近感じてたことを整理)


人によって「インプット」に最適な形式は違う、というのは最近知った話です。
字で読むより声で聞いたほうが理解が早い(文字<音声)、声で説明されるより図で見たほうが早い(音声<画像)というような。自分にとって一番わかりやすいインプット形式、アウトプット形式には個人差があるとか。身に覚えがありませんか?
(それなのに文字入力&文字出力ばかりに固執させる『学力テスト』というのはなかなか…能力把握には未熟のような)
私のインプット形式は、どうやら「限りなくリアルな情景」。まさに演劇というか、映像、夢のようなものです。
文字、画像、数字など二次元情報だけだとスッと入ってこず、いったん自分で何かの「そういうシーン」を思い浮かべて、インプットしてる気がします。理解のクセなので一瞬のことですが。
替わりに、演劇とか映像とか夢とか、シーンそのもののほうが覚えやすかったりします。
ただ、自分で映像が起こせない時は「?」が浮かんで理解が止まります。時に、その二次元アウトプットが「現実に立ち上がることを想像できない」、感覚的・心情的に辻褄が合わないとき真実味が欠けていることに気づきます。
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さいきんWeb・SNS運営、PRのほうに自分の業務が寄ったこともあり、また情勢の影響もあって、『情報操作』についてよく思い悩みます。
『情報操作』は『演出』によく似ていると思います。
それは、何を伝えて何を伝えないかを意図して、ある表現=アウトプットにその意図をのせること。
アウトプットには色んなものがあります。見出し、コメント、シナリオ、ロゴ、写真、数字、記号、色、アニメーション、動画、人の表情、言い方、しぐさ、身なり、道具、音、明暗、匂い、空間、位置、温度湿度、などなど。から観客は何かを感じて何かを想像して何かを解釈します。
それぞれのアウトプット形式の専門家は、何が何を感じさせるのに効果的かを知っています。
さらに「こういう人が、こう誤解するように」なんて高度な仕掛けを施せることもあります。
推理小説叙述トリックなんかはわかりやすい例、つまりその道の「芸」だとも言えます。
私は演劇を観るせいか広告業界にいたせいか、何の分野でも、なんとなくアウトプットには『意図者』『職人』がいて、私の知らない技術で私に何かを伝えている、つまり情報が操作されていることを想像します。
またシーン入力のクセがあるので、情報に歪みを感じると、のみこむ前にひっかかってしまいます。
シーンが思い描けない、現実味のない情報が溢れるようになって、最近とても混乱します。
私も『意図者』の一人なので、言葉や画像のプロがそれを駆使すること、演出が演出どおりに伝わった時の快感もわかります!
ただ、私がトリックに傷つかないのは、言葉も、画像も、いち形式でしかない、と昔から甘く見ているからです。
私が「そこに描かれていないもっと先、深いほう、裏側」を想像できない情報は、信用ならないと実感しているからです。
つまり目で見えたものより、自分の三次元的な読解力を頼っているからです。
比較的多いのは文字インプット型の人、次に画像インプット型の人の気がしますが、自分のインプット形式以外の形式のトリックには やや弱くなってしまう、引っかかります。
ある表現形式の専門家は、その技術やトリックが"同じ道の人以外には本当に気づかれないまま"であることの攻撃力を自覚するべきなのでしょう。
二次元の表現が容易くなって、トリックがセオリーになって、プライドを失っても表現者になれてしまいます…。
ならばせめて観客としてのプライドを持って、自分や人を守る人が、それ以上に増えてほしいと思います。
『意図』が『真実』かを見極める力。読める、見える情報はやはり全体に比べるとほんの一部で、人はたくさんの目に見えない情報も日常的に処理しています。多元的インプット。
そして情報が足りないところは想像で補って、自分なりに解釈を生み出している。
観客の想像力は、表現者の意図と比べて形式を問わず圧倒的に『無限』なので、強く、鍛えるほどに頼れるものになるはずです。
というわけで…
もっとみんな演劇観たら、三次元的四次元的に『演出』をとらえる力を自覚して だまされにくくなるんじゃないかなぁ、と思った次第であります。