庭劇団ペニノ「蛸入道 忘却ノ儀」/超常、原始、忘我の悦び
あ~失敗した!誰か連れてくるべきだった!
わけわかんないまま観て「わけわかんなかったけど凄かった」って言わせられる貴重な作品。
儀式はフェス。舞台美術が劇場で、お堂と役者がまるごとでっかい楽器でその中に自分がいる。
開演前タニノさんの「人間が進化して、くっついて、脳が9つある蛸になる」って話が全てで、わけわかんないんだけどまさにそれで、なんか90分かけて自分も1000分の1くらい蛸にされてしまった気がする。蛸なのかも、蛸なんじゃないかすでに。
前作の「地獄谷温泉 無明ノ宿」では舞台がぐるっとまわったら露天風呂になってて度肝を抜かれた。
しかしまた、演劇でつくれる時空の常識を拡大してる…。どんな過程でつくったのか?知りたいけど恐ろしいな。
「温泉」と共通して感じるのは、
「見てはいけないもの・語ってはいけないもの」を360度からどうぞご覧くださいと差し出されているような。抗えない恐いもの見たさ。
殺人や濡れ場のようにドラマでいじる隙間もない。
ヒトの原始的な性というか。だからエロじゃない。裸に剥いてるんじゃなくて、薄皮いちまい剥いじゃってる。さりげなく生々しく超常。
夢に見ちゃうやつ…。
次は観劇初心者と来てみよう、ペニノ。
甥のこと③
友達や親戚の子どもが1年ぶりに会ったら大きくなっている、
0歳から2、3か月おきに訪問すると、
うきわの空気入れ(注射器のかたち)
立って、二足歩行できるようになり、さらに行動範囲が広がる。
声が使えるようになり、ものや人の名前を覚えて呼ぶようになる。
あーあー言っている頃から色んな人に話しかけていたし、
ベビーカーで散歩していると、すれちがう人に手を振って笑顔をふりまいた。
1歳半くらいで、近所の小学生についていって遊んでいた。(
生理的欲求→好奇心→コミュニケーション欲求
その次に生まれるのが、思いやりなのだと知った。
甥のこと②
甥のこと①
「台本を読む会」のこと②
さて「台本を読む会」。
もうちょっと手法の詳細を書いておくと
・台本は私が入手したものを人数分コピーして読んでもらう
3~5本ほど用意しておき、当日の顔ぶれと雰囲気で決める
(3本冒頭だけ読んで、最後まで読みたいものを1本投票してもらったこともある)
・みんな飲み食いしながら。飲んだついでに始めたようなこともある
・私が当日の顔ぶれを見て役を割りふることが多い。2~3役兼務してもらうことも。
人数の多い作品は輪読(役ではなくセリフの順番で次々読むこと)も
・戯曲に載っている以上の解説はなるべくしない。
どんな物語かわからない状態で読み始めてもらう。
やってみて気づいたこといろいろ。
①参加者のこと
◆読む力はみんな隠し持っている
まず私は参加者に対して、
「上手く読むのが目的ではない。がんばらなくていい」と言っておく。
しかし意外とみんなうまい、と思ったのは、予想していたより、滑らかにノリノリでしゃべっていたから。
中高生の時、国語や社会であてられて「音読」させられることがあったと思う。
私は嫌いでなかったが、でもみんなボソボソとセカセカとやる気なさそうに読むものだったと思う。
それはそれで「本気で読んでいません」という日常演技だったのだろう。
いっぽうで、子どもに絵本を読み聞かせする時に同じようにする人はいない。おおげさに明るくゆっくりと、ちょっとアドリブなんかはさんじゃったりする。
子どもがそれを求めているから。
私は近頃、ヘタなフリをしていたはずの多くの人が、誰に教わるでもなく絵本の段階になると表現力豊かに変身するさまに感動していたのだ。
では何も求められないとしたら、みんなどうするのかしら、と。
誰が読んでも、日常演技をはずしてリラックスして物語に集中できれば、場のテンポのようなものは生まれ、引き込まれるようだ。
ときどき、ちょっと感情のっちゃったりとか、重いセリフの前後に間が生まれたりとか「あれ、俳優みたいになっちゃった!」と驚かされた。
◆しゃべるはずないことも、しゃべれる
私の女友達はだいたい上品である。
なのに『遭難、』の最初のセリフは「うんこしなさいよ。」だし
『売春捜査官』では「タンポン入れて~」と叫ぶ。
このイベントがなければ一生言わないだろうに、フィクションは残酷だなと思った。
案外世の作品は、日常よりも下ネタの嵐なんである。
ちょっと遠回しなセクハラだなと、自分が悪いことしてる気にもなった(笑)
でも戯曲の中ではそのセリフは成立していて、それを言う役本人としては結構自然にそう言っている。照れたりしない。だから読んでる本人も照れないですむ。
何の流れもなくそのセリフだけ読んでというと、恥ずかしいかもしれないが。
物語の説得力は恥らいに勝利する!
◆書いていないことの正解はわからない
始める前に、ちょっと待って、と止められた。
いわく「この役はどんな人?」「どんな風に読めばいい?」と。
しかし演出や演技指導をするのが目的ではないし、
「こういう人だからこういう風に真似して」と言われたところで、できた気にもならないだろう。
それでもヒントがほしいならと「ヤバイ人」とか「お嬢様」とかざっくり答える。
なぜか役になりきらなければいけないとか、かんではいけないと思いがち。
別にカミカミになりながら棒読みしてもらってかまわないのに。
だって俳優ではないし、作品創りではなくて体験会だし、
何より、現実の人間なんてカミカミで棒読みで自分になりきったりせずにしゃべってるものだ。
さらに言うと、その人がどういう人なのか、の表現が戯曲だ。
戯曲に書いてない言葉でまとめることに意味はない。
それは言わば解釈・批評の段階で、本編の前にあとがきは読まないでほしいのだ。
それに筋書は要約できるかもしれないが、人物像は要約できないと思う。人には多面性と葛藤がある。正解がないのが普通。
書いてあることが全てだし、書いてないことはおのおの大いに想像すればよし。
そこに対する不安を払拭してあげるのは難しい。慣れかな。
②主催者(私)のこと
◆2時間の作品は、読むには長い
会はだいたいいつも全体で3~4時間くらいだった。
すると2時間の作品は読めそうなのものだが、これが難しい。
一番ノリよく進められたのは15分~30分くらいの短編を順番に読んだとき。
慣れていないと15分読むだけでも集中力が必要で、どっと疲れる。
もちろん長編も章ごとに休憩したりするのだが、次どうしようかというと
「最後まで読みたい」より「別のを読みたい」となることが多い。
しかし、短編の戯曲は限られているのである。
観ておもしろい作品と、読みやすい作品は違うので、選ぶのが難しい。
◆方言は難しいがおもしろい
たまたま「東北弁」「九州弁」「大阪弁」が出てくる作品を読んだ。
関東圏の参加者はしんどそうだったが、これは読みづらいことがおもしろさだと思う。
私はふだん使わない言葉に感情をこめられることが楽しいと思った。
戦前後など時代がかったものや、翻訳ものにも同じように、使えない言葉をあえて使えるおもしろさがある。これは人それぞれ趣味があるかも。
というわけで、個人的にはたいへんおもしろく気づきが多く気に入っている。
今後も続けたいし、もしかしたら一生の趣味としてもいいかもなあ。