iaku「逢いにいくの、雨だけど」/ごめん、は自分への許しにもなる
シリアスだが、やさしいドラマだった。
子ども同士の事故の話、ということで「加害者もしんどい」「親もしんどい」くらいの予想はしてたのだけど。
親子だけでなく、
夫婦、
義理の兄妹、
男女の親友、
最近出会ったけど義眼の同志(?)など…
さまざまな関係=絆が、同時多発的に、強くなったりもろくなったりするさま。
フクザツなのに、軽やかで、面白かった。
いやもちろん人間、どうにも戻れないくらい爆発しちゃうことはありうる。でも人生はエンターテインメントじゃない。必ず生活がある。
それが皮肉っぽくなく、優しく受け入れられるような世界観だった。
あと、自分、ここは「ごめんね」と言うべきか?「ありがとう」なのか?と迷う場面では圧倒的に「ありがとう」を選ぶ。
それは「ごめん」が苦手なんである。許しを乞うようで。
でもだから言いそびれた「ごめん」がけっこうあって、その分、相手だけでなく、自分でも許しそびれてることがあるなぁと。そんなことを思った。
庭劇団ペニノ「蛸入道 忘却ノ儀」/超常、原始、忘我の悦び
あ~失敗した!誰か連れてくるべきだった!
わけわかんないまま観て「わけわかんなかったけど凄かった」って言わせられる貴重な作品。
儀式はフェス。舞台美術が劇場で、お堂と役者がまるごとでっかい楽器でその中に自分がいる。
開演前タニノさんの「人間が進化して、くっついて、脳が9つある蛸になる」って話が全てで、わけわかんないんだけどまさにそれで、なんか90分かけて自分も1000分の1くらい蛸にされてしまった気がする。蛸なのかも、蛸なんじゃないかすでに。
前作の「地獄谷温泉 無明ノ宿」では舞台がぐるっとまわったら露天風呂になってて度肝を抜かれた。
しかしまた、演劇でつくれる時空の常識を拡大してる…。どんな過程でつくったのか?知りたいけど恐ろしいな。
「温泉」と共通して感じるのは、
「見てはいけないもの・語ってはいけないもの」を360度からどうぞご覧くださいと差し出されているような。抗えない恐いもの見たさ。
殺人や濡れ場のようにドラマでいじる隙間もない。
ヒトの原始的な性というか。だからエロじゃない。裸に剥いてるんじゃなくて、薄皮いちまい剥いじゃってる。さりげなく生々しく超常。
夢に見ちゃうやつ…。
次は観劇初心者と来てみよう、ペニノ。
甥のこと③
友達や親戚の子どもが1年ぶりに会ったら大きくなっている、
0歳から2、3か月おきに訪問すると、
うきわの空気入れ(注射器のかたち)
立って、二足歩行できるようになり、さらに行動範囲が広がる。
声が使えるようになり、ものや人の名前を覚えて呼ぶようになる。
あーあー言っている頃から色んな人に話しかけていたし、
ベビーカーで散歩していると、すれちがう人に手を振って笑顔をふりまいた。
1歳半くらいで、近所の小学生についていって遊んでいた。(
生理的欲求→好奇心→コミュニケーション欲求
その次に生まれるのが、思いやりなのだと知った。